2014/11/25

街と生きている感覚



1996年 セントポルタ中央町 180インチ16面マルチビジョン完成
2014年 撤去
長い間お疲れさま。。。

こいつとはいろんな想い出があります。
あの時一緒に汗と涙を流してくれた皆さんに感謝です。

これを読んでくれている方々の中にも
想い出がきっと残っているはずです。
たとえばこんな
http://www.coara.or.jp/~halsan/report/021102/

いま事務局太田くんが毎日
アーケード改修の様子を記録とってくれています。
彼はちょうど僕が、アーケードやマルチビジョン建設に関わった時と同じ年頃。。

32歳の僕もいろんな想いを込めてやってました。
http://www.coara.or.jp/~halsan/multi.htm

何割かは実現して何割かは進行中。。
まだまだ実現していないこともある。。

マルチビジョンは中央町から消えますが、
「街は舞台だ」は、若い世代の新しい取り組みによって、スタイルを変え続いています。
それがなにより嬉しいことです。

あの頃僕も夜な夜なヘルメットかぶって記録を撮ってたなあ。。。
まだフィルムでしたね(笑)
そうだ僕も、この手で今、消えていくマルチを撮っておかなきゃ。。。

ありがとう
マルチビジョン

2014/11/19

高倉健が逝った日に無声映画を見た



「映写用意・・・スタート!!」

活弁士 麻生八咫の凛として張りのある声が、モノクロに総天然色を超えるリアリティを吹き込んだ。

世情のうさを泣き笑いで昇華。
民衆の希望パワーは100年を経ても色褪せない。

高倉健の寡黙な後ろ姿の記憶と共に

不易なレトロスペクティブに
一礼した夜

2014/11/16

世界報道写真展行ってきた


今年もAPUのキャンパスに足を踏み入れた。
国際色豊かな学生さんたちを眺めているだけでも、ちょっと外国にいるような気分。
若さっていいなあと、、元気をもらう。

世界報道写真展。
いつもと同じ写真展の会場だけれど、ここ数年、
作品に変化を感じる。

機材の進歩もその理由のひとつとしてあるのだろう。
従来のカメラでは光量の差で一枚のカットに収まらないような光景や、高ISO、超広角、、魚眼、、さらにはドローンや防水ハウジングの低廉化で以前は観られなかったような視点からの展示作品が、年々「ふつうの光景」として増えている。

でも今年のポスターは機材技術でねじ伏せたような作品ではなく
事の深刻さを、じんわり伝えるような、印象深い作品だった。


一昨年、昨年と僕はそれをドラマチックな「劇画調」という風に感じていたのだけれど
今年はさらに内面に直接踏み込んでくる感じ。

キャパの当時、カメラマンはひとりの体験者として現場にあり、
代弁者として銃弾飛び交う戦場で命がけで撮ってきたブレボケ写真を通じて、
鑑賞者は迫真性を感じていた。

しかし今年は
どうやって撮影が行われたのか分からないシチュエーションや構図の作品が記憶に残った。

撮影者の存在すら感じさせない冷徹に現場を観察するような視点の作品
安全なところからの傍観者である私は
その鋭く冷めた視点が、ことの重大さ、恐怖、、、なにより「ばつの悪さ」を増幅させる。


最大の変化はテーマがより”身近”になってきているという感覚。
国と国の戦争ではなく、テロをはじめとする敵の見えない争い。

目に見えないストレス
地球の縮小。。。

凄惨な人と人、隣人同士の争いが、
平穏な精神を蝕む伝染病のように、身近に迫っている感覚に戸惑う。

これに関しては、報道写真展を見始めた頃10年前から予感としてあったのだが、
どんどん実感に変わってきていることに戦慄をおぼえる。


とても苦しいことだけれど世界報道写真展の作品群の80%は
「不条理」「崩壊」「混沌」。。。暗く重いテーマのもので構成されている
それが社会の実状なのだろう

会場の後半には、毎年瑞々しい自然、スポーツの感動、美しい瞬間などが展示されるのだが
その清涼感では、前半の重い作品の印象を払拭することはできない。

だが日々目にするマスコミコンテンツは、
刹那の清涼感で現実に目隠ししてしまう。


毎年、ここに足を運び
「現実から目を背けない」ということを忘れないようにする。

それが僕の世界報道写真展の鑑賞意義となっている。
アマチュア写真だって、ポエムだけを追うわけじゃないんだということ。

2014/11/11

心に愛が無ければ

最近の僕の気持ち

作品に共感できるか出来ないかは、
詰まるところ作者が好きかそうでないかを見極めるってところに行き着くことになる。。。

作品を通してヒトを見ているようなところがある。
ヒトと良い縁を結ぶために作品と交信している。
良い出会いを待っているということでもある。

作者を存じ上げない場合でも、惹かれる作品に出会えば、自然に敬意がわく。
作品にこちらが勝手にイメージする人柄を投影してるということ。

実際お会いして話をして、イメージどおりであれば幸甚の至り。
作品のイメージに惹かれて、作者と話をしているうちに 陰ってくることもあったり。。
イメージが外れれば、甚だ勝手ながらそこまで。。

作者とのノリソリで、伝わってくるものの量が決まる。
すごく傲慢な恐ろしい事を書いているけれど、ある種嗜好品だから勘弁してね。

美味しいモノを食べるのは、好きなヒトとの時間を共有するため。
作品鑑賞は、人生を豊かにする人物との出会いを求めているのも同じだから。

でもヒトにはバイオリズムもあるじゃない?
だから日々思い直して予断を持たず、新しい精神で人と接する。
作品と対峙する。。。難しいけれどそうあろうと思っている。

早くも、そぞろ神のささやき。。。

小説読んで映画観ると、なんか褪せて見えるように、
人が作品にした光景を観た後で、同じ場所を訪ねても、
なにかしっくりこないということがよくある。

良くも悪くも真っ新な記憶領域は 
初めて出会った刺激の影響を受けて染まってしまう。

人が良いという所に足を運んで共感する体験も必要だけれど、
むしろ自分で気がついたものが一番美しいのだという自信は、
もっと大切なこと。

与えられる光を観る観光ではなく、自分で光を見つける観光をしよう。

または、光を見つける力(感覚・価値観)をつけること、つまりそれは日々の生活から
既に旅は始まっているのだなあ。。。という事を自然に感じる歳になったみたいです。

行きこう年も又旅人なり

毎日バタバタ、ドタバタ雑音に中で暮らしているけれど、忘れないでおこう。

Sociable