言葉をならべて伝えられるものは受け手に届くまでの減衰がはげしい。(会話の難しさ。日々感じる。)
さらに受け手のコンディションや、受容性の違いによって再構成されてしまう(受け手任せの伝達)けれど、
この写真展にならぶ作品は、有無を言わさず目から直接ねじ込まれるような衝撃がある。
APUで、今年も世界報道写真展がはじまっています。
日頃我々が目にする写真展・公募展とは、まったく違った世界で撮られたものですし、
写真展(?!・・・)と呼ぶこと自体が、これらの作品(?作品というのもなんか申し訳ないような気もするけど。。。)の撮られた目的でもないのでしょうが、、、まあとにかく
展示されている「写真の力」たるやすごいものがあります。
解像度とか色とか、。。。そんなもんはどうでもいい話。
機材や、撮影時のデータとか、ときどき写真展会場で聞かれるような、会話がいかに「小手先の議論」であるかを思い知ります。
光景を見て撮りたくなった写真
撮りながら、(撮った後)に意味をひっつける(作りあげる)写真
たまたま、撮れた写真・・・いろいろあるけど
撮る前に伝えたいことが定まっている写真
撮る人、撮られる人のメッセージがこんなに強烈に突き刺さってくる写真の力を
毎年感じられる機会が、おおいたのような田舎であるだけでも、これを見る価値と言えます。
きっぱり好き嫌い(感覚が受け付けるか否か)分かれる作品群です。
嫌悪感で拒絶、こんなの自分とは関係ないと言う人も多いことでしょう。
写真の楽しみ方、望むもの、いろいろですから。
写っているモノは極端に違いますが、「撮る人の姿勢」という部分では
僕はすごい刺激を感じますし、
風雅な花鳥風月を追い求める写真ファンも共有できるものがこの中にあると思います
ちょっと場所が遠いですけど
お時間有りましたら
行かれることをお薦めします。
そしてもうひとつ。。。
写真ファンとしてではなく
日本人として、もっと思い知るべきは、我々の幸福は、この島だけの閉じた世界でのみ成立しているということ。
最初に日頃の我々と「まったく違う世界で撮られたもの」と書いたけれど、違うのは我々の居るところの方で、これらの写真が撮られるような世界の方が広いという現実はしっかり押さえていたいと思うのです。
そして、それらの場所で起きている空気と、我々のいる場所は接しているということ。
ガラスの覆いも、壁もない「地続き」だということ。
いつまで傍観していられるのだろうか。。。
「僕らの常識」で地球全体を包んでいく可能性より、
あちらの空気で覆い尽くされていく可能性の方がずっと高まっているように思うと、少しこれらの写真の見方も変わってくるのです。
安全なところでテレビを見るような、または映画を見るような感覚で社会に関わっている
自分が、これらの写真を見ることで、いまさらながら当事者である。ということを気づかされるのです。
年に一度、この写真展をみることで感覚のリセットをしている気がします。
あちらの空気で覆い尽くされていく可能性の方がずっと高まっているように思うと、少しこれらの写真の見方も変わってくるのです。
安全なところでテレビを見るような、または映画を見るような感覚で社会に関わっている
自分が、これらの写真を見ることで、いまさらながら当事者である。ということを気づかされるのです。
年に一度、この写真展をみることで感覚のリセットをしている気がします。
紅葉やコスモスを見て美しいと思う時でも、このすさまじいことが起きている場所と、僕は同じ空気を吸っているという気持ちで過ごしていたいなと思うのです。