いつも感じることだけど、都会の人混みの中に行くと「ひとり」が際だってしまう。
「自分」の無さのせいなのか?ありすぎるせいなのか?・・・
歳月は流れた。
街を構成する店や看板は当時とは全く違うけど、
骨格となる川と道路、昔からのランドマークは変わらないから、何気なく動けてしまう。
すっかりお上りさんのくせに、
「ああ、帰ってきたよ」なんて
懐かしい錯覚を覚える事もたくさん起こったりする。
お上りさんらしく、目の前で起きている
都会での「非日常」を楽しんでいればいいのに。
ありもしないことを考えている。
目の前の煌びやかな非日常が映らない。
こころに響かない。
心が動かされるのは、都会の非日常ではなく
都会の中のありきたりな瞬間。ありきたりな光景
「都会コンテンツ」には、いまだに勝手なシンパシーを感じているんだな
でも厳然としてあるのは
僕はstrangerだということ。
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100年前の学生たちの時代から「都会くずれ」はいる。
不完全燃焼の残骸
画学生だった祖父が言っていた言葉が蘇る。
妙に生々しく 30年も前に予言されていたのか。
祖父はくずれはせず、郷里にもどり、一切愚痴ることもなく、一切ひけらかすこ
ともなく、
きちんとなすべき事を全うした
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祖父も言っていると思う。
「何をしに来たんだ、いまの気持ち吸収して持って帰れ」って。
「そんなのどうせ、つかの間の気晴らしじゃん」と
ひねくれたことを考える自分がいる。
旅をせずにはいられないくせに、外に出てみれば日頃の事を気にしている。
日常に戻った瞬間に、次の旅を夢想する。
居場所がないということなんだ。
ひとえに甘えだ。逃げだ。
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今回の旅でもいろんなことを考えた。
「これからの後半生をどう過ごしていくのか」
僕の歳で考えるべきことではないという人もいるようだ。
なるようにしかならないのだと。
僕はそうはおもわない。
なるようにしかならないなどいうのは
ある意味幸せな意見だ。
よければ、そう思える人は、
自分で自分の道をつくっているか?ということについて
少し疑ってみるといい。
考えなくていい幸せもあるだろうが、僕はそんなエスカレータは欲していない。
意志をもって、自分で決めた方向に、自分の足で歩きたい
こんなことは今いうのは遅すぎるのは分かっている。
念のために書いておくけれど
これまで歩いた道は間違いはないし、険しくもなかった。
幸せな道だ。
沿道で、導き、関わってくれた全ての人に感謝している。
でも、いま僕は、他の事。他の道の存在について考えているんだと思う。
どちらにしてもメリットデメリットはある。
P/Lについてはじっくり検討した。
実はどっちも理想のゴールは思い描ける。
でもそこに到達できる確証はない。
それどころか、たどり着ける自信も、術もない
こういう場合
選ぶのは少しでも確度の上がる、リスクの少ない既定路線だった。いままでは。
でも、「いつもならこうする」という選択肢は選びたくない
考え込んでいる
立ち止まって考え込んでいる。
方向を見失っている。
別の道を歩きたいとか、青臭いこと思いはじめているのだろうか。。。
今までの、全ての成功・幸福の経験則を壊して
作り替えたいという願望が僕の中にあるんだ。
いままでの成功の上に載っかって、今があるくせに
それを否定しようとしている
違う道筋を見つけていきたいと
子どものようなことを思っている。
こんな事を考えさらに人前に曝すことが、なんと幼稚で、どんなに恥ずかしいことであるかを
知らないわけではない。
たいへん危険なことだと分かっている
でも敢えて書いている。
これも自分で作りだしたゴッコなんだろうか
どこまでも救いようのない甘チャンなんだろうか
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